Aimable エマーブル

からだとこころの癒しサロン エマーブル

日焼け止めの種類

この時期になると、日焼け止めでお肌がかぶれたとかダメージを受けたという話をよく聞きます。

私も市販の多くの日焼け止めは、お肌への影響が強すぎると感じています。

 

お肌を最も健やかに保つコツは、美容成分をたっぷり与えることとか、最先端の技術でケアすることではなく、まず「傷めないこと」だと思っています。

そして、お肌にダメージを与える内的要因としては、ストレスや生活習慣などがありますが、外的要因としては、紫外線、強すぎる洗浄と日焼け止め剤であることが多い印象です。

 

私も以前に使って実感したことがありますが、ドラッグストアなどに置いてある高SPFの日焼け止めの多くは、強い石鹸でもなかなか落ちず、使用後にお肌が赤くなったり乾燥したりする場合があります。

 

日焼け止めの成分には、大きく分けて二つあります。

ひとつは①紫外線吸収剤、ともうひとつは、②紫外線散乱剤です。

そして、高SPFの商品の多くは、①の吸収剤使用です。

①の吸収剤は、紫外線をお肌の上で吸収し、化学反応を起こすことで、紫外線を防ぎますので、お肌への負担は強くなります。

化学反応により、お肌が熱っぽく感じたり、敏感な方は肌荒れを起こす場合もあるかもしれません。

もう一方の、②散乱剤は、文字通り、紫外線を散乱、反射させることで紫外線を防ぎますので、お肌への負担は軽くなります。

 

もちろん、短期的な負担だけでなく、吸収剤はサンゴなどの生態系を破壊するため、ビーチでの使用が不可になっているところもあるようです。

海に流れ出た成分ですら、生態系を壊してしまうほどの作用があると聞くと、人への直接的なダメージについては、まだ充分に分かっていないのかもしれませんね。

 

お肌には、もともと健やかに保とうとする力が備わっているので、与えるダメージを最小限にすることができれば、自然に潤いのバランスやターンオーバーが整いますので、結果トラブルを起こすことは少なくなります。

 

不調に悩んでいる方は、与えることよりまず傷めないこと、いたわることを見直してみませんか?

優しい洗浄剤とお肌への負担の少ない日焼け止め、それだけで変化が実感いただけると思います。

離人感が消えた日

私は、幼い頃から離人感があった。

何というか、身体の右斜め上から、常に私を見張っている私がいる感じ。

自意識が過剰になるような場面になると、そんな感覚になる人は多いらしい。例えば、人前に立ったり、自分をより良く見せたいといったとき。

でも私の場合は、ひとりでいるときもそれはずっとそこにいて、私の感じることの一挙一動を細かに見張っている感じだった。

 

この感覚は、アダルトチルドレンや何らかのトラウマを経験した人には多いように思う。

自然と生まれる感覚や感情を、そのまま受け入れられず、まず疑い、それを思考で説明しようとする。

湧き出す感情そのものを疑っているから、それをあたりまえに受けとめている他者との世界観に大きな溝を感じる。

それが、埋められない分離感、孤独感にも繋がっている。

だけど当人にとってそれは、あまりにも自然に、そして深く組み込まれたパターンで、だから自覚的にならない限り、そうしていることに気づけない。

 

私も、ある人の指摘でやっとそれに気づくことができた。

「あこさんは良い人であろうとしてるんです。本当の声を隠している。」

彼にそう言われたとき、その離人感は、憎しみや怒りの感情を避けるための見張りだったと分かった。

 

以前の私は、とにかくあらゆる感情を抑圧してきた。

癒しが進むにつれ、その多くは受け入れることができるようになったけれど、誰かに対し苛立ったり、怒ること、憎むことをとても恐れていたのだと思う。

そしてそれは、その投影となった過去をきちんとゆるせていなかったから。

 

幼い頃、共感がほとんど無い環境で育った。

どんな言葉も否定される苦しみに耐えられず、いつしか言葉を発するときには、あらかじめ思考でたくさんの防衛をするようになった。

認めてほしい、受け入れてほしい、そんなふうに感じることを、まるで無かったようにして、外側への欲求に蓋をすることを選んだ。

 

でもそれはすべて、私の心の投影だったのだ。

罪悪感ゆえ、愛への抵抗ゆえに、その罪深さが内にあることを認めたくなくて、つくりだした罪深い母という投影。

ごめんなさい、私はあなたを憎んでいました。そしてありがとう。私を映し出してくれて。

そうなんだ。憎しみだって、怒りだってあっていい。それを正直に認めないと、互いを開放することもできない。

 

怒りや憎しみって、本来とても一方的なものだと思う。

それは、こちらから相手への期待や、ものごとに対し「こうあるべき」という信念が無いかぎり生まれない。そして相手がそんな態度をとった経緯や本当の理由も、私には知る由もない。

考えれば考えるほど、怒りに正当性は無くなっていく。だけど、すべての感情は、そんな理屈など関係なくて、ただ受け入れられ、流れていくことだけを望んでいる。

 

私が、これまでの自分のことを一言で言うなら「面倒くさい。」だった。とにかく自分の感覚が信じられなかったし、それらの理由を常に思考で理解したかった。

それは、私にとってあまりにあたりまえになってしまった身体の反応だったけれど、実はただの防衛だった。

 

憎しみも怒りも、思いっきり感じていい。

大切なのは、それが心の投影だったという真理に戻ることだけだ。

 

癒しは、包み隠さず自分に開くことが大切と言うけれど、自分にだけはみつからないよう深く隠蔽した不満に、ひとりではなかなか気づくことはできない。

だから、コースは「天国は、兄弟と共にでないと行けない。」という。

もちろん天国とは、死後とかあの世ではなくて、不満に隠蔽されてきた、今ここにある愛。

私たちの自我もまたひとつであり、互いに共有しているものだからだ。

 

不思議なことに、その気づきを堺に、いつも右上にいた私は消えてしまった。

もう、感情を見張る必要など無くなったからだろう。

生まれ出るひとつひとつはすべて必然で、だから否定することなく優しく包み込んでいく。

そうしていくことで、わたしとは包まれるほうではなく、包むこむその根源なのだと、自我はようやく降参するのかもしれない。

ほんとうの自分とは

最近、俳優の渡部篤郎さんが好きすぎて、過去の作品を遡っていくつか観ていたのだけど、その中のひとつ「100年の物語」というドラマがとても感動的だった。

 

(ここからは、完全にネタバレの内容なので、これから観たい方はページを閉じてくださいませ。)

渡部さんが演じる進次は、元ボクサーなのだけど、もともと勉強ができず、周りから出来が悪いと言われ、自信もなく、だけどボクシングに出会って才能を発揮したことで、やっと周りに顔向けできるような自分になれたと思った。でもその矢先、足を刺されて障害が残り、リングに立てなくなってしまう。

 

そのとき、彼には妊娠中の婚約者がいたのだけど、彼女は新しい恋人をつくり、彼の元から去ってしまう。

お腹の中の子どもの命まで奪われたと知った進次はカッとなって相手の男性を暴行し、一生残るだろう障害を負わせてしまう。そして、刑務所に入り仮出所したところで、松嶋菜々子さん演じる千代と出会う。

 

進次は、神さまはきっと自分にこう伝えたかったのだろうと話す。

「一生罪を償い、もう二度と誰かを愛したりなどしないように。自分は誰かを幸せにすることなどできないのだから。」

 

だけど、彼の不器用すぎるほどのまっすぐさと優しさに、徐々に惹かれていった千代は、彼にこう伝える。

「神さまはきっとこう言いたかったのよ。ボクサーは優しすぎてボクサーに向いてなかったの。足を怪我したことだって、本当の自分をみつけて、早く希望を取り戻しなさいって。ボクサーの愛が必要な人はきっといる。あなたにしか幸せにできない人も必ずいる。」

 

多分、たくさんの人が、何者かになろうとしながら生きているんだと思う。

だけど「ほんとうの自分」とは何だろう。

私たちは、進次が抱えてきた自己評価のように、親や周りから受けた扱いとか評価、他者とのコミュニケーションの際に生じる思考を、自己だと思いこんでいる。

でも、意識のしくみを知っていくと、それもまた、心の結果なのだとわかる。

まず、何らかの自己認識(信念)があり、その信念の証明のために、世界にその結果を投影している。

 

すべてのネガティブな自己評価は、守るために生まれる。傷つくことから、身体の命の危険から、そして何より、愛(全体、おおもと)から遠ざかっていたいがゆえの防御策なのだと思う。

 

心に傷を負ったとき、私たちには二つの選択がいつもさしだされている。

自我の声を聞くなら、もう二度と傷つかないよう防衛し、攻撃し、ネガティブな、あるいはより優れた偽りの自己評価で、「私」をどんどんと縮こませていく。

守るべき私には、傷はずっと消えずにあり続ける。

 

だけど、真我の声を聞くなら、千代の言うように、傷こそがほんとうの自己を知るためのツールとなる。傷つくことを超えた自己をみつけるとき、傷は最初から無かったことがわかる。

わたしとは、傷つく個ではなくて、大きな全体の必要不可欠な一部なのだと。

 

最後に非二元論のスピーカーである阿部敏郎さんのブログの中の、大好きな一文を紹介させてください。

たとえ人が人里離れた山奥で、たった一人で自給自足して生きていたとしても、その人の存在は宇宙全体に大きな影響を与えています。

その人がいなければ全体は存在できないといってもいいでしょう。

 

全体を大きな風船に例えるなら、そこにほんの少しの欠損が生じて穴ができてしまったら、時間の問題でその風船は存在できません。

僕がいなければ、そしてあなたがいなければ、この宇宙は存在できないのです。


僕たちは幼少のころから、人様の役に立つこと、社会から必要とされる人間になることを叩き込まれてきました。

でも実際には、寝たきりになって人の世話になるだけだとしても、その価値は他の人と同じように計り知れないものがあります。


社会主義国は人間を物として見るので「働かざる者、食うべからず」などといったスローガンが生まれますが、人間は物質ではなく霊性によって生かされている霊的存在なのです。

希死念慮の根っこにあるもの

先日、堀田真紀子さんのシェアクラス後のメールのやりとりで、私が過去ずっと希死念慮を抱えてきたことへの堀田さんからのメッセージが、本当にそのとおりだと感じたので(ご本人の許可をいただいて)紹介します。

 

「この世界のどこにも、本当の意味で、出口がない。
でも、ごまかさないで、本当の出口を探したい。
そんな気持ちから、潜在的な自殺衝動のようなものずっと抱えていた人、コース学習者の中にはよくいますね。

投影でできている世界の本質を見抜く力があってのことで、とてもいい、学習の素地になります。」

 

希死念慮や自殺願望というものは、この社会ではあまりにタブーにされがちだと思う。

その根底には、身体こそすべてといった物質主義的な価値観がある。

 

だけど、幸せという観点からすれば、そんな価値観を満たすためのやり方は、常に矛盾だらけだ。

心より身体の安心を追求しようとするとき、私たちはどうやったって互いを比較、判断し、奪い合い、恐れているし、何より心の奥底で防御し攻撃していて、そうしていることへの罪悪感を無意識に抑圧している。

そして、何をいくら手に入れたようにみえたところで、最終的に待っているのは、喪失とこの身体の終わり=死しかない。

 

生きる意味がわからないというと、多くのセラピーや心理療法では、あくまでそんな自我的な価値観に沿ったかたちで、その意味をみつけようとする。

もっと素晴らしい自分になれば、とか何かを手に入れれば、あるいは思考のパターンをポジティブを変えればといったように。

だけど、鎧をいくら立派にしたところで、根っこにある疑問はぬぐえない。

 

そして、それは苦しみや葛藤を抱える心、そのものの否定に繋がる。

今考えると、私は物理的な何かを満たしたかったのではなくて、ただ、答え=本当の出口をみつけたかったのだと思う。

何故、苦しむ人がこんなにたくさんいるのか、傷つけ合わなければ、憎み合わなければならないのか、そしてそんなふうに痛みや弱さを感じる敏感さを、いつだって抑圧しなければ生きられないのか。

 

今になってみると、真紀子さんがおっしゃるように、自我優位であるこの世界に、苦しみや絶望を感じる人ほど、きっと本質に気づく力があるのだと私も思う。

だけど、この世界(投影)の犠牲者になっているうちは、自我のやり方にはまり、その苦しみが訴えている真の本質、幸せとはどんどん真逆の方向へいってしまう。

 

もし神さまがいるなら、こんな世界はつくらなかった。

消えたくなるほどの苦しみって、そんな問いかけでもあるのかもしれないと思う。

 

そして、心はその出口を憶えているからこそ求めているし、苦しんでいる。

だから、希死念慮も痛みも弱さもふくめ、感じるすべてはかけがえのないヒントなのだと思う。

苦しみとはきっと、この身体を超えた潜在的な記憶の呼びかけであり、その出口は、外側ではなく、私たちの心の中にある。

問題の根源

純粋非二元論では、苦しみのすべての原因は、「神との分離」(でもそれは起こっていない)と言う。

そう聞いても、ほとんどの人は「は?」だろう。

そもそも「神」というものも、宗教だったり、善悪の観点から悪(罪)を裁くもの、不足を満たしてくれるもの、特別な力を授けるようなものといった、人のエゴのそれと勘違いされがちだから。

 

そして、苦しみにもたくさんの種類があるようにみえる。

人間関係、お金、恋愛、たとえば恋愛の中にも、相手への不満とか、好きな人の側にいられない悲しみ、そんな個人や状況のパターンがあり、そしてそれに合わせて独立した解決策が必要なように思える。

 

だけど、問題の根っこ深くまでみていくと、そこには必ず、「満たされたい」という思いがある。

問題がお金だろうと人間関係だろうと、不足しているであろう何かを、それを解消することによって満たしたい、という思い。

そして、その思いの根底にあるのが、自分に対する不足感、罪悪感。

 

そして、それがどこからくるのかというと、私(=個)という感覚。

全体から分離した(ようにみえる)この身体のみが自己と知覚している限り、それらはどこまでもつきまとう。

 

だって、傷つき、壊れ、修復し続けなくてはならず、いつか失われるものだけが自己であるなら、そして、そのはかない自己を守るために、他者を心の中で無意識に攻撃しながらしか生きられないのなら、不足感や罪悪感は、絶対のものとなる。

 

あらゆる問題は、潜在的に感じているその不足感や罪悪感を満たそうとするための道具、ツールにすぎない。

なのに私たちは、それを全く逆のように錯覚していて、満たすことのほうを目的にしてしまう。

 

私はまだ経験したことがないのだけど、いわゆる一瞥体験といわれるものは、自他との分離が全く無くなった状態といわれる。

それは、決して脳のエラーではなくて、そもそも「私」とは、過去〜未来を形成している思考の中にしか存在できない。

それは瞑想などしているとだんだん分かってくる。唯一実在する今ここに「私」はいない。

 

脳科学的にも、個である私をつくる働きは左脳にあり、そこが何らかの要因で静まり、右脳優位となるとき、自己はどんどん膨らんでいく。

ならば、私たちが知覚している私と他者、世界というものに、どんな信憑性があるんだろう。

 

神との分離とは、いいかえれば全体からの分離であり、永遠からの、愛(受容)からの分離でもあると思う。

そして、実際に分離しているものなど誰もいなくて、私たちは受容という大きなひとつのシーツの上で、小さな波を起こしている気になってるだけ。

 

問題は最初から起こっていなかった。

真の癒しとは、満たし続けることではなくて、それを知ることだと、私は思う。

原因と結果

Twitterをみていたら興味深いつぶやきをみつけた。

ざっくりいうと、米国の国立研究所の量子コンピューターによるタイムトラベルの実験で、過去に何らかの干渉を起こしたとしても現在に大きな変化を起こすことはない、と証明されたというもの。

 

あぁ、もうそんなことまで分かってしまうんだなと思いながら、記事を調べてみたら、いくつか出てきたのでそのうちのひとつを貼ります。

過去に行っても歴史は大きく変わらない? バタフライ効果は存在しないことが量子タイムトラベルのシミュレーションで判明 (2020年8月4日) - エキサイトニュース

 

私が探求している純粋非二元論や、インド哲学のアドヴァイタなども、この世界とは過去の結果ではなくて、心の投影という幻想だと言う。

だから、苦しみの原因はすべて心にある。

 

逆にこれまで一般的に広く信じられてきた説は、今ある苦しみは、過去のできごとや葛藤の結果だということ。

だから、多くの心理療法やセラピーでも、過去のできごとの中に原因をみつけ、そこを癒すことで、その結果である今を変えようとする。

だけど、自己の外側に原因(恐れや脅威)をみつけるやり方には、完全な平安はなく、無力さがつきまとう。

 

親子関係などがわかりやすい。たとえばアダルトチルドレン(自らが抱えたのではなく、環境に培われたという意味においてのそれ)などは、外側に毒親など負の原因があった、とみることが多い。

だけど、私という存在が、常に他者や環境に容易に傷つけられてしまうと信じている限り、心はずっと恐れたままだし、不安だ。

 

もちろん、怒りや憎しみもふくめ、どんな感情もあっては良いものだけど、それがずっとあり続けるということは、苦しみが今も解消されていない、癒されていないということ。

そして、それは、被害者=外側に原因があり、自己を無力だと信じるかぎり、手放すことはできない。

憎しみや怒りは、傷ついたままの心(恐れ)の防衛だから。

 

だけど、その国立研究所の説の通り、できごとをいくら変えたとしても結果であるはずの今が変わらないのだとしたら、そこには全く因果関係はないということがわかる。

できごと(世界)とは、やはり原因ではなく結果でしかないということ。

 

原因は、心の罪悪感や恐れにある。

それを手放していくことで、投影である世界にそれらを映す必要はなくなる。

内側にそんなものがあると信じたくない自我は抵抗するけれど、本当の自由はそこにしかないように思う。

被害者も加害者もいない世界にしか、真の安らぎはないのだから。

チャクラとアロマオイル

チャクラとは、身体のエネルギーが出入りしている場所です。

人体ふくめ、すべての物質は、それぞれが分離した個体のようにみえますが、実際にはエネルギーがぐるぐると回転し続けることによって、生命を維持し続けているといわれます。

 

私たちの視覚は、物質レベルしか把握できないため、そのはたらきにはなかなか気づけませんが、身体が呼吸や臓器の働きふくめ、あらゆる生命維持活動を行えるのは、エネルギーや気の流れがあるからなんですね。

それらエネルギーの流れを健やかに保つためのチャクラは7つあって、まるで人間の精神的な成長の過程を知るようで面白いので、ちょっと長くなりますが、ひとつひとつ簡単にご説明したいと思います。

 

まず、第一チャクラ、ここは骨盤の底あたりにあるのですが、人間の根っこの部分を支えます。

例えば自分が生きていることそのものを受け入れる力だったり、存在することへの安心や安定の部分で、年齢的には1歳〜の時期に関係します。

 

次の第二チャクラは、おへそのあたりにありますが、ここはセクシャリティチャクラとよばれ、性的な喜びや生命力に関係します。

年齢でいうと8歳〜、人生そのものを楽しむ力を司る部分です。

 

第三チャクラは、みぞおちのあたりにあり、自分らしさや自分軸などに関係します。

年齢的には14歳〜、ここが弱いと被害者意識が強くなったりもします。

 

第四チャクラは、ハート、心臓のあたりにあります。ハートチャクラという名の通り、共感や愛、思いやりを司ります。

年齢としては21歳〜、動きが過剰であると自分本位になったり、弱いと人との関わりを拒みたくなったりします。

 

第五チャクラは、喉のあたりにあります。喉というように、自己表現やコミュニケーションを司ります。

また心の声を聞くことにも大切な部分です。

エゴの声でなく魂の声をきちんと聞き取れる力を育てます。年齢としては28歳くらい〜。

 

第六チャクラは、サードアイともよばれ、眉間の部分にあります。

その名の通り、見極める力、自己や世界を偏見なく見たり、見かけにとらわれることなく、本質を見極める力にも関わります。

 

最後の第七チャクラは頭頂にあり、1〜6までのチャクラが整うことで、バランスがとれていきます。

すべてにおいて信頼が生まれるので、心配や不安がなくなります。

 

いかがですか?

まさに人間の精神的、霊的成長の流れを感じるようで、不思議ですよね。

そして、自分はどのチャクラの流れが滞っているかを知るのに、アロマオイルはとても有効です。

 

私の例になりますが、私は以前、自分が存在しているということをなかなか受け入れることができず、常に希死念慮に悩まされてきました。

そんなとき無性に惹かれた精油が、ベンゾインでした。当時はまだアロマオイルについてあまり知識がなかったのですが、その香りを嗅ぐとポロポロと涙が出ました。

何だか、自分がここにいること、存在そのままをただただ優しく包みこんでくれるように感じたのです。

 

ベンゾインは第一チャクラを癒す精油といわれます。まさに存在を否定する心をほぐしてくれたのだと思います。

そして不思議なことに、癒やされてくるとその感じかたも変わってきます。

今でもベンゾインは大好きな精油ですが、あの頃のように感情が強烈に揺さぶられることはなく、お家に帰ったような優しい安心感を与えてくれる香りへと変わりました。

 

嗅覚は、感情と深い関係があります。香りは、脳の大脳辺縁系扁桃体に働きかけますが、それらは人の記憶や感情を司る部分です。

私たちはよく思考優先になりがちですが、心身の癒しに直結しているのは、思考よりも感情のほうであり、考える(理解する)よりただ感じきることが、過去に苦しみを残すことなく、今に向かわせる力となります。

 

サロンでは、それぞれのチャクラに対応したアロマオイルをブレンドし、丁寧にチャクラの流れを整えていくケアや、心が求める香りを選んでいただきトリートメントしていく感情デトックスのケアなど、各種ご用意しています。

 

時には、常に外側に向きがちな心を休めて、感じる時間をつくりませんか?