Aimable エマーブル こころ館

からだとこころの癒しサロン エマーブル 

今ここに在る

夫は討論番組が好きでよく観ているだけど、娘は子どもの頃からそれを嫌がっていた。
以前は、子どもだからまだわからないのだろう、そのうち興味を持つようになる、と思っていたのだけど、私も幼い頃同じだったことを思いだした。

というよりも、ほとんどの子どもがそうなのだと思う。
彼らは、大人たちが必死になっている、こちらが正しい、あの人は間違ってる、これはこうあるべきだ、こういうことは許してはいけない、そんな論争や諍いごとには目もくれず、ただ目の前のリアルに夢中だ。

そして、子どもの頃の私もまた、ブラウン管の中のストーリーに一喜一憂している大人たちをとても不思議に感じていた。
彼らは、ここにない怒りや憎しみをわざわざひっぱり出してきて、自ら苦しんでいるように見えた。
そうすることで、まるで何かもっと大切なことから目を背けていられるかのように。それを上手く言葉にはできなかったのだけれど。

だけど、そんな私もいつしか彼らと同じようになっていたし、それが大人としてあるべき姿と信じていたように思う。

今は、幼い頃のその違和感が何だったのか、なんとなく分かる。
子どもはリアル=感覚(今ここ)を生き、大人は幻想=思考(過去と未来)を生きている。

そして、思考(=頭の中のストーリー)を生きているからこそ、私たちは不安や不足感に苛まれる。
何故ならそこにリアル=完全さはないのだから。だから平安もない。
完全さは実在=今ここだけにある。

世界で起こるストーリー、メディアの向こうの他者のストーリー、過去から未来という思考のストーリーの中に、自らの正義や正しさ、あるべきかたちを求めたくなるとき、そこには必ず恐れがある。

その恐れを手放していくことが、何よりの開放と自他との和解となるのに、私たちはその正しさを押し通すほうを選んでしまう。
不安や不足感を手放すことよりも、それらを満たし続けようとすることを選んでしまう。

だけど、幾度も繰り返し、いつか気づくときがくる。何故なら不足感はいくら満たし続けても終わりはないから。

恐れによる、思考への、世界ヘの自らの正義の関与の欲求が、今ここにある完全性(愛)を隠蔽し、さまざまな対立や争いをつくりあげている。

「そうすることで、まるで何かもっと大切なことから目を背けていられるかのように。」

私たちは、何より「今ここ」という実在から目を背け、そこに遍在する愛を、恐れ続けているのかもしれない。