Aimable エマーブル こころ館

からだとこころの癒しサロン エマーブル 

苦しみを手放さない主体者であるという意識

非二元論を教えている堀田真紀子さんのシェアクラスに参加させていただけることになった。

これまで私は、握りしめた「〜べき」を「観念」と呼んでいたけれど、堀田さんは「信念」とおっしゃっていて、主体性を自覚するにはその表現のほうがずいぶんぴったりくる気がした。

 

結局のところ、私たちが苦しみを手放せない理由は、他者や自己、社会やできごとに対してのジャッジメント=こうあるべきという(観念あらため)信念ゆえなのだと思う。

だけど、その信念が、自分以外の何か(社会や親、学校、運命など)につちかわれたと信じている限り、自己をその信念の被害者のように無意識に感じている。

 

実際には、現象(できごと)が信念をつくるのではなくて、信念が現象を生む。

たとえば、自分は愛される価値がない、という信念があるとするなら、その信念通りの現象(できごと)を、これまで幾度も経験してきたはずだ。

 

私の場合は、以前から「人に迷惑をかける」ということがすごく怖かった。

そんなシチュエーションに遭遇すると、上手くやらないとお前は存在する価値がなくなるぞ、というような自責の声に、いつも悩まされてきた。

 

自責や、罪悪感は、自分を苦しめる邪魔な感情のように思える。

だけどそれは、結局は、求愛感情なんだ。

自己を否定すること、あるべき自分を求めることで、私という存在への受容を求めてきただけ。

だけど、愛(受容)に条件をつける、という戦略が、求めるそれからますます私を遠ざけていく。

無条件の愛(受容)を求めているのに、自らがそれを、条件でがんじがらめにしてしまう。

 

愛は、罪悪感、不足感、欠乏感の信念を手放していくとき、存在すべてにすでに与えられているものとわかってくる。

それでも、罪悪感や欠乏感が、社会や他者から与えられたもの(=被害者)と信じている限り、手放すことを選択することはとても難しい。それは主体者であるときにのみ、可能になる。

だから「信念」=自らがそこに信を置くことを選択している、という意識を持つことは、とても大切なのだと思う。

 

被害者でありたい自我にとって、主体者であるということは、まるで敗北のように思える。

だけど、それほどの自由はない。

愛を妨げているものは、それを限定しようとする私の選択だけであり、運命も、他者も、世界も、それに何ら影響することはないと知るからだ。