Aimable エマーブル こころ館

からだとこころの癒しサロン エマーブル 

不足感や欠乏感はどこから

苦しみがあるとき、私たちはそれが他者の言動だったり、逃れられない身の危険=与えられた運命だったり、いずれにしても外側に原因があるように感じる。

 

だけど、苦しみを感じている心のもう少し奥まで進んでいくと、ものごとや自他に対して「こうなってほしい。」という期待、「こうあるべき。」という信念がある。

そして、そのもっと奥には、その信念を握りしめている原因、安心や安全を求め、今も苦しんでいる心がある。

「信念」とは、その先の結果を得ることで、安心を埋めようとする企みのようなものだ。

 

だから、何かや誰かをゆるせないとき、そこには必ず不安感や不足感、欠乏感がくっついている。というよりも、それらがあるから信念(による心の攻撃や防衛)を手放すことができない。

それが自他へのコントロールを生む。

 

私たちはよく、他者がその信念を満たすことをしてくれるなら、そこに安心や幸せがあるように感じるのだけど、根底にある不足感や欠乏感は、満たすことで埋まることはない。

もし満たされたように感じても、それはほんのひとときの安心に過ぎず、次はその埋めてくれた何かを失うかもしれない恐れに苛まれる。

どこまでいってもいたちごっこだ。

 

そして、不足感や欠乏感の原因はどこにあるのか。

つきつめれば、それは、私に何かが足りないとか、努力や所有物が不足しているからではなくて、「私」そのものにある。

全体から分離したようにみえる、この小さな身体(個)=私であると認識している限り、不足感や欠乏感による不安から完全に離れることはできない。

 

同じ空間にいる対象を大好きだったり、心から安心しているとき、何かに夢中になっているとき、私たちは身体と同一化することを忘れている。

そのとき、自己は緩み膨らむ。全体の一部として、ただ受け入れられている。

 

だけど、ゆるせないとき、信念をぎゅっと握りしめるとき、恐れているとき、私たちはこの身体を境目に、自他との境界線をしっかりと刻む。

自己は縮こまり、ぎゅっと境界線の内側に押しこめられる。全体と分離した感覚、足りない、受け入れられていない、そんな潜在的な感覚がつきまとう。

 

あらゆる信念への手放し(ゆるし)が、その縮こまった私を全体へとひきもどす。

ゆるすというと、私たちはよく、罪のあるものを恩赦したり、我慢して相手に譲るということのように思うのだけど、そうではなくて、自ら縮こませていた鎖(信念)との同一化をほどき、本来の自己、緩み、膨らむ全体の一部としてのわたしへとかえる道のようなもの。

そのとき、欠乏感も不足感も、ほんとうは最初から必要の無いものだったことを、私たちは知る。