純粋非二元論では、苦しみのすべての原因は、「神との分離」(でもそれは起こっていない)と言う。
そう聞いても、ほとんどの人は「は?」だろう。
そもそも「神」というものも、宗教だったり、善悪の観点から悪(罪)を裁くもの、不足を満たしてくれるもの、特別な力を授けるようなものといった、人のエゴのそれと勘違いされがちだから。
そして、苦しみにもたくさんの種類があるようにみえる。
人間関係、お金、恋愛、たとえば恋愛の中にも、相手への不満とか、好きな人の側にいられない悲しみ、そんな個人や状況のパターンがあり、そしてそれに合わせて独立した解決策が必要なように思える。
だけど、問題の根っこ深くまでみていくと、そこには必ず、「満たされたい」という思いがある。
問題がお金だろうと人間関係だろうと、不足しているであろう何かを、それを解消することによって満たしたい、という思い。
そして、その思いの根底にあるのが、自分に対する不足感、罪悪感。
そして、それがどこからくるのかというと、私(=個)という感覚。
全体から分離した(ようにみえる)この身体のみが自己と知覚している限り、それらはどこまでもつきまとう。
だって、傷つき、壊れ、修復し続けなくてはならず、いつか失われるものだけが自己であるなら、そして、そのはかない自己を守るために、他者を心の中で無意識に攻撃しながらしか生きられないのなら、不足感や罪悪感は、絶対のものとなる。
あらゆる問題は、潜在的に感じているその不足感や罪悪感を満たそうとするための道具、ツールにすぎない。
なのに私たちは、それを全く逆のように錯覚していて、満たすことのほうを目的にしてしまう。
私はまだ経験したことがないのだけど、いわゆる一瞥体験といわれるものは、自他との分離が全く無くなった状態といわれる。
それは、決して脳のエラーではなくて、そもそも「私」とは、過去〜未来を形成している思考の中にしか存在できない。
それは瞑想などしているとだんだん分かってくる。唯一実在する今ここに「私」はいない。
脳科学的にも、個である私をつくる働きは左脳にあり、そこが何らかの要因で静まり、右脳優位となるとき、自己はどんどん膨らんでいく。
ならば、私たちが知覚している私と他者、世界というものに、どんな信憑性があるんだろう。
神との分離とは、いいかえれば全体からの分離であり、永遠からの、愛(受容)からの分離でもあると思う。
そして、実際に分離しているものなど誰もいなくて、私たちは受容という大きなひとつのシーツの上で、小さな波を起こしている気になってるだけ。
問題は最初から起こっていなかった。
真の癒しとは、満たし続けることではなくて、それを知ることだと、私は思う。