Aimable エマーブル こころ館

からだとこころの癒しサロン エマーブル 

離人感が消えた日

私は、幼い頃から離人感があった。

何というか、身体の右斜め上から、常に私を見張っている私がいる感じ。

自意識が過剰になるような場面になると、そんな感覚になる人は多いらしい。例えば、人前に立ったり、自分をより良く見せたいといったとき。

でも私の場合は、ひとりでいるときもそれはずっとそこにいて、私の感じることの一挙一動を細かに見張っている感じだった。

 

この感覚は、アダルトチルドレンや何らかのトラウマを経験した人には多いように思う。

自然と生まれる感覚や感情を、そのまま受け入れられず、まず疑い、それを思考で説明しようとする。

湧き出す感情そのものを疑っているから、それをあたりまえに受けとめている他者との世界観に大きな溝を感じる。

それが、埋められない分離感、孤独感にも繋がっている。

だけど当人にとってそれは、あまりにも自然に、そして深く組み込まれたパターンで、だから自覚的にならない限り、そうしていることに気づけない。

 

私も、ある人の指摘でやっとそれに気づくことができた。

「あこさんは良い人であろうとしてるんです。本当の声を隠している。」

彼にそう言われたとき、その離人感は、憎しみや怒りの感情を避けるための見張りだったと分かった。

 

以前の私は、とにかくあらゆる感情を抑圧してきた。

癒しが進むにつれ、その多くは受け入れることができるようになったけれど、誰かに対し苛立ったり、怒ること、憎むことをとても恐れていたのだと思う。

そしてそれは、その投影となった過去をきちんとゆるせていなかったから。

 

幼い頃、共感がほとんど無い環境で育った。

どんな言葉も否定される苦しみに耐えられず、いつしか言葉を発するときには、あらかじめ思考でたくさんの防衛をするようになった。

認めてほしい、受け入れてほしい、そんなふうに感じることを、まるで無かったようにして、外側への欲求に蓋をすることを選んだ。

 

でもそれはすべて、私の心の投影だったのだ。

罪悪感ゆえ、愛への抵抗ゆえに、その罪深さが内にあることを認めたくなくて、つくりだした罪深い母という投影。

ごめんなさい、私はあなたを憎んでいました。そしてありがとう。私を映し出してくれて。

そうなんだ。憎しみだって、怒りだってあっていい。それを正直に認めないと、互いを開放することもできない。

 

怒りや憎しみって、本来とても一方的なものだと思う。

それは、こちらから相手への期待や、ものごとに対し「こうあるべき」という信念が無いかぎり生まれない。そして相手がそんな態度をとった経緯や本当の理由も、私には知る由もない。

考えれば考えるほど、怒りに正当性は無くなっていく。だけど、すべての感情は、そんな理屈など関係なくて、ただ受け入れられ、流れていくことだけを望んでいる。

 

私が、これまでの自分のことを一言で言うなら「面倒くさい。」だった。とにかく自分の感覚が信じられなかったし、それらの理由を常に思考で理解したかった。

それは、私にとってあまりにあたりまえになってしまった身体の反応だったけれど、実はただの防衛だった。

 

憎しみも怒りも、思いっきり感じていい。

大切なのは、それが心の投影だったという真理に戻ることだけだ。

 

癒しは、包み隠さず自分に開くことが大切と言うけれど、自分にだけはみつからないよう深く隠蔽した不満に、ひとりではなかなか気づくことはできない。

だから、コースは「天国は、兄弟と共にでないと行けない。」という。

もちろん天国とは、死後とかあの世ではなくて、不満に隠蔽されてきた、今ここにある愛。

私たちの自我もまたひとつであり、互いに共有しているものだからだ。

 

不思議なことに、その気づきを堺に、いつも右上にいた私は消えてしまった。

もう、感情を見張る必要など無くなったからだろう。

生まれ出るひとつひとつはすべて必然で、だから否定することなく優しく包み込んでいく。

そうしていくことで、わたしとは包まれるほうではなく、包むこむその根源なのだと、自我はようやく降参するのかもしれない。