Aimable エマーブル こころ館

からだとこころの癒しサロン エマーブル 

マジョリティでありたい恐れ

マジョリティ(多数派)とマイノリティ(少数派)という言葉があるけれど、私はものごとの捉え方が少し変わっていることは小さな頃から感じていた。

多くの人にとって、あたりまえに通り過ぎるような「これはこういうものだから」という概念のひとつひとつに躓いてきたし、自分の中でクリアになるまで先に進めなかった。

 

成長するにつれ、集団の中ではそんな疑問にうまく蓋ができることが、より安泰に生きるコツということもだんだん分かってきたけれど、それでも自分を偽る方が苦しかったし、そういうふうにしか生きれなかった。

はみ出すよりも、偽ることの苦しみのほうが、ずっと大きかった。

 

だから長い時間をかけ、自分が自分であることを受け入れ、自分にとって心地良いあり方をみつけてきたつもりだった。

だけど、どこかでそんな自己を卑下し、普通(多数派)であれるということを、羨ましく感じていたのだと思う。

だけど、今回のコロナ騒動は、そんな思いを一掃してくれた。

マジョリティでありたいという心もまた、恐れにすぎないと分かったからだ。

 

私にとって、このコロナ騒動は最初から疑問だらけだった。

これまで、人間ふくめ、生きものにとってあたりまえだった病や、それにまつわる苦しみや死が、コロナに関してだけはタブーとされ、その方針に反する疑問の声も抑圧されてしまうこと。

私は、ずっと美容の仕事をしてきたので、常在菌や自然免疫が、いかに私たちのお肌や身体を守ってくれているかを学んできたけれど、推奨される対策は、あらゆる菌を殺し、免疫をつくるための菌の交換(交流)もシャットアウトし、まるで抵抗力を落とすようなものばかりだったこと。

他にもたくさんあるけれど、何より不思議だったのは、今までの常識とはまるでかけ離れたそれらの対策が、あっという間にマジョリティのありかたへと変わっていくことだった。

 

集団(大多数)とは、いくらそこに正当性がなかったとしても、無条件にそれを「正しさ」としてしまう力を持っている。

私たちは、ある概念について、「それ」が正しいことだから、社会も、自他もそうあるべきとよく信じてしまうけれど、正しさとは、立場や見方、社会の通念によっていくらでも変わるものだ。

 

正しさを他者にまで押し通したいとき、その根底には必ず恐れがある。

それが「本当に正しいから」ではなくて、実際は「恐れているから」こそ「正しくあってほしい」。

だから、いくら外側(何かや誰か)がその正しさに従ってくれたとしても、内側に恐れがある限り、同じようなできごとは幾度も繰り返される。

 

日本人は特に集団意識が強いといわれるけれど、マジョリティでありたい、はみ出したくない心理というのは、日本人にとって強大な恐怖なのだと思う。

だけど、マジョリティ=正しい側という安心の中にいる限り、その根底の恐れは、直視されることなく、見逃されていく。

そして、その無意識下の恐れを顕わにさせる敵として、マイノリティは淘汰されていく。

 

ここ数年の社会には、そんなうねりのような強い排除の勢いを感じている。

だけど、対象が他者であれ、菌やウイルスであれ、敵と認識したものを分離し、やみくもに排除し続けていく、その先に平安はあるんだろうか。

 

たとえば、お肌からみても、病原菌が侵入することを防いでくれているのは、そこに住んでいるさまざまな常在菌のバランスで、過度のアルコール消毒はその働きを崩し、大切な善玉菌も一緒に殺してしまう。

もちろん菌だけでなく、人が食べていくこと、生きることそのものが、そんな奇跡的な自然のサイクルに支えられていて、人の生死もそんな大きなひとつの生命の営みの一部だと、私は感じている。

 

共存なのか排除なのか、何だか、人間としても社会としても、今がその分岐点のような気がしている。

 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」

宮沢賢治